故郷を離れて三十数年、関東で暮らす永遠の少年のどーってことない日記
xxSEARCHxx
プロフィール

ST☆FF

Author:ST☆FF
HTTといえばインテルの Hyper-Threading Technology!・・・ではなく、放課後ティータイムのことだと思います。

最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー
ブロとも申請フォーム
ブログ内検索
RSSフィード
リンク

最近の記事


スポンサーサイト 

--/--/-- --:--/--
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

CATEGORY:スポンサー広告 | CM(-) | TB(-) |

中華人民共和国コピー商品事情 【その1】 

2013/01/30 01:04/Wed
中国(中華人民共和国)におけるコピー商品の多さについては、今や世界中の人々の知るところとなって
いますが、その割にはマスメディアで触れられることがあまり無いように感じます。
隣国なので情報や実物の入手が簡単ということもあり、日本のブランドや商品の多くがその標的にされて
いるにも関わらずです。非常に不思議です。
そもそも中国ではなぜこれほど安易にコピー商品が作られるのか、という問いに対しては、一般的には
「著作物/著作権に対する意識が希薄もしくは皆無」であることが原因と言われてきましたが、近年では
むしろ、外国(主に日本)の県名や地名、特産品の銘柄の類を意図的に中国国内で商標登録するという、
いわば確信犯的な例も急増しており、もはや「単に発展途上国だから」では済まされない状況になって
来ています。

ある歴史家の方が仰っていました。
現在中国と呼ばれている地域のうち、いわゆる中原(ちゅうげん)に生活していた「漢民族」と呼ばれる人々
だけが漢字を使用していました。ただ当時の漢字には絶対的な決まった読み方がなく、たとえ恵まれた家に
生まれて「正字」という由緒正しい漢字を勉強する事が出来ても、自分が習った先生の読み方が他の地方の
人には通用しない、というものだったそうです。また手工業者や商人など文字を仕事で使う層が台頭してくると
彼ら一般庶民の間では「通字」や「俗字」と呼ばれる漢字が多く使われるようになりました。

漢字を勉強するといっても自分の研究内容や創作物を綴って纏め上げるような作業はなく、ただ昔の高名な
人物が書いた書物の文章を丸暗記するだけであり、その中の一節を抜き出し書いたものを見せられた時に
即座にその作者や書物の名前が浮かんだり、書かれている情景が目に浮かんだりすることが重要でした。
その上で、それら古典の中から必要な部分を抜き出して繋ぎ合わせたり一部を入れ替えたりして作文する力と
いうものが実社会において必要であり、ゆえに評価されたそうです。この時多少文字の順番が違っていても
細かいことは気にしない傾向があり、「コレトコレ、ドコチガウ?チガワナイヨ、オナジダヨ!」といういわゆる
「大同小異」の諺にもある気質が根底にあったのではないかと考えられます。
また「某作家は優れた人物です。自分はこの先生の本は全部読んで一字一句を全て覚えています。だからこの
私も優れた存在なのですよ。」と言えるのがステータスだったそうです。

支那の地域では多民族が広大な土地に分散しており、隣村の人とは話し言葉が通じないのが当たり前でした。
そんな中、農民などは開拓のために同族がまとまって未知の土地に移住すると、身を守るため城壁を作り小さな
門を通って出入りし、夜は門を閉じてその内部で過ごしたと云います。つまり、城壁の外は話し言葉の通じない
異民族が住む危険な世界だったのです。

こういった側面から必然的に「漢字」は話し言葉とは別次元の、目で見るための記号としての役割を果たしました。
たとえあまり身分が高くなくても、たとえば行商に最低限必要な漢字を知っていれば、遠くの町まで出かけて行った
ときに、相手が同じ漢民族ならそれらの漢字を適当に並べて書いて見せるだけで大体の意味は通じるのです。

このように、漢字を知っている人同士でならなんとか経済活動を行う事が出来たわけです。が、逆に自分の
本心とかその時の感情等を表現するには漢字は不向きでした。なぜなら、自分が知っている古典の中をどんなに
探しても、今の自分の状況や気持ちをピタリと表現できる漢字など無かったからです。難しい言い回しや
気取った表現などはあっても、一般庶民の日常生活の場面での感情表現など見つかるはずもないでしょう。

この「漢字」というものを使っているうちに、古典などの素晴らしいものがまずあって、自分たちはその内容の
一部を如何にうまく引用(真似またはコピー)するかが最も重要であり、その原典にこそ素晴らしい価値は
あるのだが、一方でもし自分たちがなにか新しいものを作ったとしてもそんな物には何の価値もないのだ、
という考え方が長い歴史を通じて浸透していったのだそうです。

私は、コピー商品問題の原因もまさにここにあるのではないかと感じました。彼らにとっては自分の作った
オリジナルなど何の意味もないのです。何か非常に人気のあるもの、優れたものがまず最初にあって初めて
それに対し自分達の為すべきこと(真似またはコピー)が見つかるのです。この思考が非常に特徴的です。

要するに、伝統的に、生き方や人生観、価値観自体にそういう傾向があると言えるのかもしれません。
そう考えると、こんな根深い問題を、たとえば年単位で啓蒙・解決可能などとは到底思えません。
本当に、そら恐ろしくさえ感じます。


スポンサーサイト

CATEGORY:所感 | CM(0) | TB(0) |
xx HOME xx
トラックバックURL
→http://3335.blog106.fc2.com/tb.php/219-c8de56a7

コメントの投稿














xx HOME xx

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。